書評 無(最高の状態)  (著)鈴木祐

書評

タイトルから仏教関連の本と勘違いする人も多いと思うがさにあらず、日々私たちを悩ます苦痛、苦悩とは何か、そしてそれを感じている自己、つまり自分とは何なのかを最新の認知心理学・神経心理学の知見をフルに使って鋭くまとめた秀逸な一冊である。

大方の人は、自分は生まれ落ちてから現在まで、寝ている時間を除いて一貫した“自己”であり続けている、少なくとも覚醒中は、自分という存在・意識を保ち続けている、と考えているのではないだろうか。

デカルトの“我思う、故に我あり”の時代から、自分という意識は生まれてから死ぬまで貫かれる確実な存在であると、多くの人が信じてきた。だが、現代心理学、特に認知心理学の分野では、この自己というものがかなり不安定なものだと捉えられている。極端な話、それは意識の機能の一部で、揺るがぬ存在どころか、状況に応じて出たり引っ込んだりする不確定なものだと考えられているのだ。

今日、ベッドで目覚めたあなたは洗面所で歯を磨き、顔を洗った。その時あなたは自己(自分はXXであるという実感)を意識していただろうか?夜、あなたは缶ビールを片手にテレビの野球観戦に夢中になった。その時あなたの自己はどこにあっただろうか?前者の場合、あなたはただ機械的に歯ブラシを動かしていただけではないだろうか?後者でゲームに熱中したあなたは、いわゆる“我を忘れた=自己の消えた”状態にあったのではないか?こうしてみると、常に自分を意識し行動を制御する一貫した自己などというものは幻想に過ぎず、実際はかなりあやふやなものだとも言える。

著者、鈴木祐氏は、自己とは“あなたの内側に常駐する絶対的な感覚ではなく、感情を支配する上位の存在でもなく、特定の機能の集合体にすぎない”と説く。それは必要に応じて現れ、役目が終わると消えていく。我々が信じる、目覚めてから一貫して存在する“自分”というものは、我々の妄想に過ぎないのだ。あくまで一つの考え方だが、本書の明快な説明には思わず引き込まれる。意識について説明した本は多数あるけれど、ここまで平易に書き下ろした本は初めて読んだ。(読んでいないだけかもしれないので他にあったら教えてください)

本書はまた、人間の脳がもつ生得的なネガティブ指向についても分かりやすく説明している。これは認知心理学の様々な書籍によって一般にもかなり知られるようになってきたことだが、著者は、これを一の矢、二の矢というユニークなメタファーを使って説明する。

一の矢とは、ネガティブ思考を引き起こした事象だ。失業、失恋、病気、交通事故など、我々は一の矢が飛び交う中を生活している。運悪くこれに当たってしまうと我々は精神的ショックを受け、活動は鈍るか停止する。通常このショックは時間と共に消え失せ、精神はしばらく後に活動を再開する。だが多くの人は、ここで自分を苦しめる思考を始めてしまう。不幸な出来事を反芻し、我が身を嘆いたり、未来を憂うことで連鎖的なネガティブ思考に引きこまれ、自らの不幸を拡大してしまうのだ。鈴木氏はこれを“二の矢”と名付けた。“反芻”はこのブログでも紹介してきた、ACT関係の本に必ず出てくる思考メカニズムだが、本書の説明は実に分かりやすい。

一例として著者は、京都大学で飼育されていたチンパンジー、レオの話を紹介している。不幸にして下半身付随となったレオは介護状態置かれている。人間の場合、こんな状況に陥ると絶望し、将来の不安に苛まれ、我が身の不幸を嘆くだろう。だがレオは違った。下半身付随の原因となった痛みには苦痛の反応を見せるものの、それ以外の場面では落ち込んだ様子はまったくなく、時には喜びの感情さえ表したという。

「サルは動物だからね。悩むほどの知性がないんだよ」。こう言ってしまうのは簡単だが、少なくともチンパンジーは二の矢による自傷行為をしない。だが人間はする。そして時には究極の絶望状態に自らを追い込み、死を選ぶことさえある。いったいこれはなぜなのか?そもそも二の矢を撃っているのは誰なのか?

読者を引き込む見事な筆致で、著者は二の矢の正体と、それを放つ実体、“自己”について説明していく。二の矢とは、自己が紡ぎ出す物語だ。交通事故にあった人間は、まず一の矢、現実としての肉体的苦痛を味わう。さらに自己は二の矢をつがえ、自らに向ける。“障害が残ったらどうしよう”、“仕事をクビになったらやっていけない”、“俺の家族はどうなるのだ”etc。心理学でいう“自己物語”というものだが、これについてここまで分かりやすく深掘りしたのは本書が初めてだろう。(前回紹介した「Chatter(チャッター)―頭の中のひとりごと」も自己物語の一種である)そして、これを抑え込む最高の方法が“無”ということになるのだが、それについては本書をじっくり読んでほしい。それだけの価値はある本だ。

というわけで、本書は大変読み応えのあるサイエンス本であると同時に素晴らしいセルフヘルプ本でもある。二の矢を放たないための思考法、無我に至る方法をこれまた明快に示してくれる。心のメカニズムを知り、その御し方が理解できる。(ただし、読んですぐに出来るようなものではない。繰り返しの練習は必要である。念のため。)

無(最高の状態) 単行本(ソフトカバー) 

https://amzn.to/488mbLA

コメント

タイトルとURLをコピーしました